食べる量も、スピードにも個人差はあるというのが基本なはず
一昨年の事件だけれど、ホント間違ってるルールだなと思っている。
残さず食べることが良しとされる完食指導みたいなもんをいまだに規律としてとらえているのは、ホント驚きである。
食べるのが遅い子供はいる。いや、大人にだっているのに。
1歳児給食で窒息死 保育園園長ら書類送検|読売テレビニュース (ytv.co.jp)
食事に関して、小さな頃から変なルールの縛りのもとで食べるのは味覚教育にもなんにもなっていない。時間内に完食って、なんの選手権なんだろうか。
ザ・昭和な時代の小学校にも、苦手な食べ物を無理強いされて嫌だというと、
「作ってくれた人に失礼」とか「農家の人が作ってくれた野菜を」とか 「みんなはちゃんと食べている」とか、もう意味不明の内容で子供を責めたりするような根性論以外なんの教育根拠も持たない先生は沢山いましたね。
給食の量は年齢によって必要な量を出しているのだから・・・・みたいな説教も全然意味ないのです。必要エネルギーには個人差があるのが当然ですから、下手な給食、完食指導は本当にムダで苦痛なものでしかありません。
子供が苦手なものを強いられて、強制的にその場だけ食べたとしても先々に美味しく食べられるってことは少ないと思います。絶対に食べない、口にしないという頑なさを育てるだけしか効果がありません。
「世界には食べたくても食べられない人がいる!!!」こういう下手な脅し文句みたいなことを言い出す先生もいまだにいるのではないでしょうか。
私も小学生の頃によく言われたことがあります。
しかし、「苦手な食べ物は残せばいい」という我が家の方針と食い違っていて、とうとう、家に電話がかかってきて、しばらくして家庭訪問を受けました。
祖父は先生の話を聞いたあとに
「オレは明治生まれで、戦争を知っている。先生のいう、食うや食わずの時代をしっている。だが、それをダシに子供に不味い飯を食えというのは違う。悲惨な出来事や不幸を例えにだしてアンタの都合のいいように無知な子供を従わせるのをやめろ。そういうことの積み重ねが、戦争につながるんだ」
というようなことを言ったと記憶しています。
学校全体や先生がこうあるべきという変な思い込みや精神論的規則、そういうことに子供を従わせるために無駄に窮屈な思いをさせたり、言外の微妙な圧力をかけてコントロールしようとするのはやめろということでしょう。 そういう、圧力付きの精神論と戦争は祖父の中で強くリンクしてたのかもしれません。
苦手な食べ物あっていいんです。
「もう二度と食べたくない」
「見るのも嫌だ」
ただ、無理強いしたあげくマイナスの感情をその食べ物とリンクさせないようにするのが大事で、いつか、何かのはずみで食べたとき
「おっ、食べられる!」ということも大いにあるんですから、その機会に出会うまでは「ちょっと苦手」ぐらいで終わるようにすればいいんです。
食べるのが遅い人も、少食な人もいて当たり前なんですから、行き過ぎた完食指導をしたりするよりも先に、基本的な当たり前の「違い」を教育する側がきちんと知って受け止める必要があります。
「違い」を容認すると教育する側が大変なことになるという方もいるでしょう。
が、そういうやりもしない妄想上での不幸な予測はできるのに、先のニュースでの「時間内に食べ終わらせる」という残酷なミッションの危険性には考えも及ばないというようでは、その大変さの見積もりもずいぶんと違うものだと言えるでしょう。
農林水産省がいうには、
食育は、生きる上での基本であって、知育・徳育・体育の基礎となるものであり、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実現することができる人間を育てることです。
だそうで、面白くもなんともないものですが、
食育って大事よ!なんでかっていうとねぇ、
不規則な食事とか、生活習慣病やメタボの増加、栄養の偏りもあるし、過剰なダイエットとかも危ないよね。食品の安全とかも大事だし、食の海外依存も心配だからだよ。
とも言ってます。
でもね、完食せいとか、無理に苦手なもの食べろとか言ってないわけ。
まずは、安全な食品を楽しく、無理なく食べてこその食育じゃないんかなぁ。
楽しく食べてほしいね!!