反省劇場はもうやめて
あるお店でリカバリーがきくミスであるのに、そのミスで自分を責め続けて、長々と謝っている責任者がいた。
「彼は、責任感が強いからね」それを見てオーナーサイドからはそういう意見が出ていた。
私は、オーナーサイドがそういう評価を下す体質だと、生産性が低い責任者の育成ゲームが続くだろうと思っていた。
たまたま組織の上層部の見ている前でミスをしたからといって、責任者が
長々と反省劇場をくり広げることを責任感が強いという解釈をする思考がどうにかしていると私は思った。
ミスのリカバリーに少しの時間はかかった。そのことに対するお客様へのお詫びは済んでいるのに、その後、上司に水飲み鳥のように頭を下げることが責任感というのだろうか???
こういう「ひれ伏し型」の責任者というのは、それをそのまま部下にも要求する。
部下がミスをすれば「ちゃんと反省してるのか!」などと、きつく言っては反省の尺度を態度で計ろうとするあたりが、もう能力がないのだけれど、
こういうバカバカしい抽象的なことの積み(罪)重ねが職場の空気や人間関係を重くして生産性をドンドン下げる結果をまねくことになる。
こういう場合、責任者はミスの再発防止への取り組みに協力すべきであるのに、単に自分自身の「溜飲を下げる」ための態度を部下に求めているだけなのだ。
離職率の高い職場は、このような、責任者が味わう一時的な満足感、優越感のために部下に不信感とストレスを抱かせるというバカバカしい出来事が繰り返される。
反省劇場の開催が多い職場というのは、どのような職種でも過ごし辛いものだが、若者の死因の1位が自殺であるこの国は、学校でも職場でも時には家庭でも反省劇場が頻繁に開催されているのではないかと私は感じている。
ミスに向き合うというのは、額に汗して謝罪することではない。
ミスを重くとらえるその強度でもっと軽やかに改善できないかを深刻にではなく真剣にやることだ。
だが、そのほうが、反省劇場を繰り広げることよりも仕事としては負荷がかかる。
つまり、反省劇場は楽なのである。
反省を求めて留飲を下げるほうも、泣かんばかりに頭を下げる水飲み鳥も新しい取り組みや改善策で結果を出すことのほうが、大変なのだと知っている。
前出の責任者は私が改善策をいくつか出すと
「下手な提案をして上から責任を押し付けられたらたまったもんじゃないよ」といって恐れ、いっこうに改善策に手をつけなかった。
反省劇場を猿芝居で続けることは楽であるのだろうが、ストレスの原因は放置のままである。