食いしん坊、危機一髪
一昨日、昼間、買い物を済ませた私は原付で帰宅しようとしていた。爽やかな日で、気分もよく私はビートルズのオール・マイ・ラヴィングを鼻歌まじりで運転していた。
マンションまで、普通に走っていればあと3秒という場所で大きな住宅工事をしていて、そこに土を運び入れようと大きなトラックがバックで入っていく。
ピピーっと、作業の人が停止をうながして、私はトラックが目の前を横切ってバックで現場に入っていくのを見ていた。ゆっくりとバックでトラックは移動していく。
ところが、トラックが現場に入りきらないうちにトラックの荷台の側面がなぜかスローモーションのようにハラリと倒れて、砂埃がふわっと風に乗ってこちらにきた。妙な鉄まじりの匂いがするなと思った。
私は、その妙な匂いを感じながらも鼻歌交じりで待っていると、作業していた人がサッと旗を振って進めの合図を出した。私は出発しようとしたが、めったに起きないエンストがおきた。後ろからクラクションが鳴る。すぐにエンジンをかけなおして出ようとした瞬間、トラックの前輪が段差を滑り、ドカンと前進してきたのだ。
そういえば、ジョン・レノンが撃たれて運び込まれた病院で亡くなったときに流れていた曲は、オール・マイ・ラヴィングだというじゃないか・・・・
明日から寂しくなるね
忘れないでね、ずっと君を想っているよ
離れ離れの間、毎日きみの家に手紙を書いて
愛しい想いを全部きみに送るんだ
送るどころか、オール・マイ・ラヴィングを鼻歌交じりに遠くに召されて、天使にカム・トゥギャザーされるところであったが、そうはならなかった。
私はこれまでの人生でこういう危機一髪的で助かるということが何度かあったて、青信号で横断歩道を渡っていても、目の前を速度を緩めることなくトラックが通過したときには、本当にびっくりしたものだ。このときは、後ろから誰かに引っ張られたような感覚があった。
神秘とか、霊がどうのとかを言いたいわけではなく、
現実の中には論理などは存在せず、現実は全く別の複雑極まりないものなのである・・・・といったニーチェの言葉を思い出しては、この複雑極まりないものの中に、そういう現象も込みなんじゃないかなぁとボンヤリ考えたりもするのである。
こういう危機一髪の後には、最後の晩餐について考える。
最後の晩餐というと「何を食べたいか?」的な質問になるけれど、キリストみたいに弟子に裏切られるとなったら、パンすら喉を通らないと思うよ。もしくはワインをガブ飲みして「おい、フィリップ、肉もってこいよ~」とか言ってもいいレベルの悲しみだもんね。
もし残された時間が24時間とかになったら、私の場合、色々と感謝の気持ちやら、不甲斐なさからの謝罪など、お世話になった人をまわって伝えるべきことが多いので、多分、立ち食い蕎麦とかコンビニのおにぎりとか菓子パンになるのかもなぁ・・・と思ったりもするけれど「現実は全く別の複雑極まりないもの」なので、朝食のバナナが最後になるかもしれないのだ。
そういうことを考えたら、朝ごはんに食べるオニギリとお味噌汁がいつもより味わい深くなり、感謝があふれ出るようで、美味しさ倍増。
オニギリといえばこの映画
食べっぷりならこちらも
だが、握り飯の喰いよう、汁のすすりようってことなら、こちらの方に勝るものなし
座頭市の食べっぷり、飲みっぷりは見事です。
当時の名優たちもたくさん出ていて、楽しみながら、なぜかどんぶり飯と沢庵とか、茶漬けが食べたくなること間違いなし!
座頭市のように旅の途中、敵に討たれていつ死ぬか分からない張り詰めた人生はお断りですが、生きるために食べるって姿勢は「複雑極まりない現実」には大事なことだと思うのです。
もちろん、楽しんで作ることと、感謝して食べることも。