「人をはかり、自分をはかる」気の毒な人のやり方
微妙に温度差のある白けた雰囲気で察知できる
あるとき突然にスタッフが辞めはじめる予兆というようなものだ。
私がアドバイザーで入ったお店で大学生がスマホに録音した「社員からのねちねちとした理不尽な要求と説教」を聞かされたときには、驚きもしたが、なにより私より10歳近く年下の社員の人の「古い感覚」にうんざりした。
飲食店というのは、離職率が高い。労働環境とがキツイと一口に言っても色々あるが、従業員を苦しめるのは「理不尽なルール」や「理不尽で(バカな)責任者の感覚」である。
「うちは飲み会は強制出席」「反省会という名の(何も解決しない)ミーティングも必ず出席」「3カ月に一度は従業員全員で遊びイベントやります」こういう体育会系のノリにコロナ禍まえからうんざりする人が増えていて、むしろこの手のノリは敬遠するという人が多くなった。
コロナウィルスが収束してきても「会社の定期的飲み会」「取引先との飲み会」「会社の新年会、忘年会」この三つが復活して欲しくない飲み会に入るとかで、それくらい職場の強制飲み会は嫌われている。プライベートの時間を削って、気を遣いながら飲み食いすることを強制するのをコミュニケーションなどと言うのは「人の不快さ」が分からない人間のすることである。
そんな人間がサービスについて語ったりするのだから、社員のハラスメントになるかならぬかの言いがかりを冷静にスマホで録音しておこうとする世代には「気の毒な人」としか映らないのだと思うし、そういう人の指図で働くのは苦痛である。で、キリのいい時をみて辞めるのだが、問題や苦痛を共有していたほかの人も辞めるきっかけになるので、連鎖して人手不足のビッグウェーブとなる。
「距離きつい」「連勤、ラスト強制」「説教マックス」「オレ様」などなど、横のつながりを通じて「めんどくさい店」とその特徴の情報を共有して「プライベートとメンタルに負荷の少ない」状況のお店で働こうとする人は世代を問わずに増えている。
「距離きつい」とは、通勤のことではない、アットホーム的な職場の人間関係を作り身内感覚の従業員ばかりになった職場を表現しているのだ。長く働いてもらいたいなら「みんな」ではなく「個々人」が風通しがいいと感じられる職場作りをしていかなくてはいけない。
「古い感覚」のままの責任者の言動は、マイナスのデータとしてネット上にあがったりもする。
コロナ禍前、どちらかといえば体育会系のノリのお店のオーナーに
「職場の飲み会や行事への参加の強制は、労働とみなされる可能性がありますから、飲み会をやるときは <用事がない、都合のいい人だけ>というふうにしましょう」と提案したとき、彼の顔が一瞬曇って、
「もし・・・」そう言ったが、次が続かない。
もし、誰も来なかったら、もし、すごく少人数だったら・・・そう思ったのだろう。飲み会の参加で、従業員や関係者の何をはかろうというのか。
Aさんは参加したから自分のことを好いてくれている、Bさんは来なかったから自分を軽んじているという感覚を持ったりするのだろうか。
ある政治家が、失脚したとたん山のように来ていたお中元やお歳暮がパタリと来なくなったという話はたくさんある。
まだ元気だったころの父が、世のいわゆるゾルゲ事件に間接的に連座して拘置所に入れられたとき、「犬養?つきあいもないのに電話など迷惑ですね」などと、相談や用事で電話をかけたときどなったような人たちは中元、歳暮をそれまでは(戦前、戦中といえ)きちんとした人たちだった。 「世間の眼」を恐れずに、親切に訪ねて来ては、時に差し入れの手伝いさえしてくれたほんのわずかの数人は、中元、歳暮を、その後、時代が変わって父が再び世に受けいれられたのちも、しない人たちだった。
犬養道子著作 『アウトサイダーからの手紙』
この父とは、暗殺された犬養毅の息子、犬養健のことである。
強制されていもしない贈り物でもこうである。品物以外、見えるものなしである。
強制された飲み会や行事で何がわかり、何が深まるというのか。そのようなもので何かをはかり、何かを得ようとするのはやはり
「気の毒な人のやり方」なのだろう。